責任と幸せ

 私はまんじぇのスタッフになって現在13年目。アドラー心理学に出会ってからは、もう25年以上経っているので、最近、私が普通に思っていることが、「あれ?世間一般とずれてる?」と思うことがときどきあります。たぶん、その中の1つを先日あらためて認識したので、今日はそれを書こうと思います。

 それは「責任」というものについてです。先日、某SNS上で死刑についての意見のやり取りの中で、「なぜ自分が払う税金で犯罪者にメシを食わせないといけないのか?」と言われている方があったので、私は「そういう犯罪者を生み出しているのはこの社会であり、自分はこの社会の構成員の一人として責任があると思う。」と言いました。そこからしばらくやり取りを続けて見えてきたのは、世の中には自分の責任と思わない、思いたくない人が多いのだな、ということでした。

昔、アドラー心理学を学んでいた頃、「そこの角に電柱が立っているのも自分の責任」と言われたことがあります。「は!?」と思いますよね?(笑)

また、悩んでいる人に対して「『悪いあの人かわいそうな私ゲーム』をしてますね。」という言葉もよく聞きました。そういう人に対して言われていたのは「幸せの鍵を自分の手元に取り戻しましょう」ということでした。

つまり、「悪いあの人かわいそうな私」ってしている限り、幸せの鍵はその相手に渡してる状態なのです。つまり自分は無力。不幸でいるしかない。相手が変わってくれない限り、自分は不幸なまま。そして、他人なんて変えられないんです。変えられるのは自分だけ。

自分に鍵を取り戻すということは言い換えれば責任を自分に取り戻すということだと思います。人の責任ではなく自分の責任だと思うことではじめて自分は無力な人ではなくなるのです。それは幸せなことではないでしょうか?

逆に、世の中は自分にはどうしようもない不条理なことばかりで、いつどんな不幸が襲ってくるかわからない、そんな世界に住んでいたら心を病みそうではないですか?

アドラー心理学の子育て講座「パセージ」の中には、<子育ての心理面の目標>として2つのことがあげてあります。

1)私には能力がある。

2)人々は私の仲間だ。

この目標をいつも頭に置いて自分の対応を「この対応をしていると、子どもは『私には能力がある』と感じるかな。『家族は私の仲間だ』と感じるかな」と自己点検しましょう、とあります。私も日頃それを心がけ、ときどき点検しています。

つまり、何が言いたいかというと、「そこの角に電柱が立っているのも自分の責任」と思えるということは、この世界と繋がっている感覚であり、自分がこの世界の一員であるという感覚であり、そして、自分はそこにアクセスし変えていける能力があると思える、そういう状態。つまり、上記の子育ての心理面の目標がある程度達成している状態なのではないかと思います。

そう、責任を感じられるということは、自分は無力ではないし仲間もいる、という幸せと結びついているのだと思うのです。逆に、自分には責任なんかない!と言いたい人はおそらく自分に自信がなく、社会とのつながりを限定的にしか感じられない人なんじゃないでしょうか。それはあまり幸せな状態とは言えない気がします。

日本人は他国と比べて自己肯定感が低い人が多いと言われています。(謙遜の文化もありますが、自殺率の高さなどを考えると、決してそれだけでもないですよね。)それと「自分には責任はない」と思う人が多いのとは無関係ではない気がします。

デモクラティックスクールの教育は、自由とともに子どもにもきっちり責任を求める教育なので、それはときに厳しくもありますが、自分には責任とともにどんな生き方を選ぶ自由もあり、その能力もあるのだと思えるようになれたら、それはきっと幸せな人生なのではないかと思うのです。

そういうわけで、私は責任を感じられることが多いほど幸せに思います。自分には、自分が所属しているこの社会で、できることがある、と思えるからです。責任を持ちたくない人は、自ら幸せの鍵を放棄しているようで、もったいなく思ってしまいます。みなさんは、いかがですか?

責任は幸せへのパスポートです♪