まんじぇは「オルタナティブスクール」のひとつです
「オルタナティブ(alternative)」というのは「もうひとつの」とか「とってかわるもの」という意味で、「オルタナティブスクール」とは、主流の学校ではない別の選択肢としての学校というような意味です。つまり、「学校に行けなかったから」という理由で通う代替的な施設ではなく、公立の学校を含め、並列な選択肢のひとつとして捉えています。 まんじぇは昔「フリースクールまんじぇ」と名乗っていました。それは、教育における「フリー=自由」の重要性を意識したかったことや、先輩スクールであるグラスルーツフリースクールへの敬愛の念もありました。 けれども、日本で「フリースクール」という名称が広まっていくときに、「学校に行けない子が通う場所」というかたちで伝わってしまいました。そして、そこには多くの場合、なんらかの理由で学校へ行けなくなってしまった子を「支援する場所」というニュアンスが含まれていました。つまり、子どもを「助けてあげる対象」と見る目線です。それは、子どもたちこそが、学校を作っていく中心的存在であり、学びの主体なのだと考える私たちの教育観とは相容れないものです。 助けてあげる対象として見るということは、ある意味子どもを見下しているということです。もちろん、子どもから「ここを助けて欲しい」という要望があれば、まんじぇのスタッフは必要とされている支援をします。ですが、頼まれてもいないのに大人の勝手な判断で助けるということは、子どもを見下す行為です。 そんな流れがあって、フリースクールという名称のまま「本当の自由」の意味を伝え続けていくことに限界を感じ、デモクラティックスクールまんじぇに改名しました。
本当の自由とは?
さて「自由」については、「スクールの特徴」のページにまんじぇの3つの柱のひとつとして挙げてありますが、大切なことは、自由は必ず責任とセットだということです。好き勝手にして、その結末に責任を持たないというのは「放縦」であって、私たちが意図するところの自由ではありません。自由は決して楽なものではなく、場合によってはかなり厳しいものなのです。 まんじぇの保護者のひとりが、「もし子どもがまんじぇに通ってなかったら、こんなに『責任』という言葉を使うことはなかったんじゃないかと思う」と伝えてくれたことがあります。まんじぇの自由は「公立の学校はいろいろ詰め込みすぎで子どもも疲れるよね。もうちょっと自由があるといいよね」という類のふわっとした自由ではありません。
責任と自己肯定感
自由と責任がセットになっている場では、自分から提案すれば、どんなことでもできる可能性がありますが、自分が言い出さなければ何も起きません。ミーティングに出るかどうかも自由ですが、出なかった場合、そこで自分が気に入らないことが決定されても文句は言えません。 子どもが自分でやり始めることの中には、うまくいかないこともあるでしょう。当然です。エジソンは電球を発明するまでに1万回失敗したことを「失敗ではない。1万通りのうまくいかない方法を発見したのだ」と言ったそうですが、うまくいかないことからも人は学ぶことができます。それは責任が自分にあるからこそ。人から言われてやったことがうまくいったときも嬉しいけれど、自ら挑戦したときとは比べものにならないでしょう。「お手柄」が一点のくもりなく自分のものだからです。失敗も同じで、だれかに言われてやったことがうまくいかなかったら、そのだれかのせいにしたくなります。自分に責任があるからこそ大きく学べるのです。 そもそも本当に信頼して任されていると感じていれば、子どもたちは慎重になります。これは大人でも同じですよね。「100%あなたを信頼してお任せします」と言われたら、とても慎重になりませんか?そして誇らしく感じませんか?自己肯定感は、そのように自由と責任を自分で持つ中で育っていきます。まんじぇが大切にしたいところは、まさにそこなのです。